百名店スタンプラリー

はじめに

  • これはeeicアドベントカレンダー2020の22日目の記事です。
  • このブログはフィクションです。実在の人物・団体と関係があるのが歯がゆいです。
  • 店舗の情報は記載されている訪問年月当時のものです。
  • 味は個人の感想です。

プロローグ

ユーザによる飲食店の口コミが書き込まれる「食べログ」というサービスには、百名店というものが存在する。年末になると、その年のジャンルごと・地域ごとに評価の高かった100の店が選ばれるのである。そしてユーザのなかには、百名店に選ばれた店をすべて訪れようとするもの好きもいる。私の研究室の先輩であるT氏も、そんなもの好きの一角である。彼はその行為を「百名店スタンプラリー」と呼んでいる。

私は食べることが好きだが、残念ながら味覚には自信がない。小さい頃ホテルで食べたカレーを「そんなに美味しくない」といったときの、「こういうのを美味しいというんだよ。覚えておいて。」と返した母の悲しげな顔はなかなか忘れられない。認めたくはないが、いわゆるバカ舌というやつなのだろう。一方でT氏は、私を遥かに上回る食事好きで、私より研ぎ澄まされた味覚を持っている。

そんなT氏が百名店スタンプラリーを始めることにしたのは、今年の3月のことだった。そしてひょんなことから、私もT氏とともに多くの百名店を訪れることになった。T氏の志は道半ばだが、それでも既に多くの店に行っている。そのすべてはとても紹介しきれないが、今日はそのなかから、私とT氏が口を揃えて絶賛した店を10個選んで書いていこうと思う。

2020年3月【海の底から見た光】デリー 上野店(上野広小路

その日私とT氏は研究室で一緒に作業しており、一緒に昼食を食べに行こうということになった。大学の近くで行ってみたいカレーの店があるとT氏が言うので、私もそれについていった。連れられて来たのは、「デリー 上野店」。ランチタイムなのもあってか、店の前には10人弱の列ができていた。列に並んでいるあいだ、T氏は私に多くの話をしてくれた。百名店というシステムのこと、デリー上野店もまた百名店に名を連ねていること、そして百名店スタンプラリーを始めようとしていること。
「どうしてまた、その百名店スタンプラリーというのを始めようと思ったんですか?」
私が興味津々で問うと、T氏は困ったように笑った。
「最初は単に、有名なお店や知人に勧められた店を巡ってたんだ。そしたらある日、百名店に入っている店もいくつか訪問していることに気が付いてね。それならせっかくだし全部回ってみたいなって思ったというだけだよ。」
あ、でもね、とT氏は付け加えた。
「百名店といってもいろんなジャンルがあるんだ。そのなかでもとりあえずは、カレー百名店TOKYOとラーメン百名店TOKYOだけにしようと思う。学生にとっては高価なジャンルは金銭的にも厳しいしね。それから僕が制覇を目指すのは、百名店2020にするつもりだよ。今年の年末に発表されるはずなんだ。」
「え。それじゃあ、まだまだ先のことじゃないですか。」
「うん、発表されるまでは、百名店2019なんかに名を連ねている店をゆっくり回ろうと思うんだ。百名店は毎年けっこうかぶるからね。もちろん2020年の百名店を2020年のうちに先回りで制覇する人もいて、そういう人は百名店から公式に表彰されるとも聞いたんだけど、今はそこまでしなくてもいいかなって思うんだ。」

そうこうしているうちに店に入り、私たちはデリーカレーを注文した。到着したカレーには、大きなチキンとじゃがいもが入っていた。具材が大きいのは私にとってはとても嬉しいことだ。ちらりとT氏の方を見やると、彼は早くも食べ始めていた。私もルウを一口食べて、その味に驚いた。食べたことのない味だった。思わずT氏に話しかける。
「なんというか、すごく甘いですね。フルーティーっていうんでしょうか。」
T氏はルウとライスから目を離さぬまま答えた。
「うん、すごくなめらかで深みのある甘みだね。まるで深海に自分自身がゆっくりと落ちていくような、そんな気持ちになる。でもそれでいて、このほどよい辛さが心地よく現実を思い出させてくれるね。深海にうっすらと差し込む日の光みたいだ。ぼくはその光を見上げていて、それでも自分の体はまだ海の底にいるかのような、そんなカレーライス。」
私にはT氏の言っていることがさっぱりと分からなかった。どういう意味かと問おうとしたが、彼がまたカレーを口に運び始めたのでやめておいた。どうやら美味しいという意見は合致しているようなので、私にとってはそれで十分だった。私も、ごろりとしたチキンを頬張ることに専念することにした。

帰り道、私はまたT氏から百名店のことをいろいろと聞いた。そのとき、T氏が私にこう誘ってくれた。
「君も僕と一緒に行く?もちろん全部の店を回るのは大変だし、君が来たいときだけで構わないよ。」
私はその誘いを二つ返事で承諾した。美味しいものを食べて回るというのは魅力的に映ったし、何よりT氏の食生活に興味があった。こうしてT氏の百名店スタンプラリーは始まったのである。

2020年3月【オール5】らぁ麺 はやし田 新宿本店(新宿三丁目

デリー以降、私はいくつかの店をT氏とともに訪れた。そこで分かったのは、食事中にはT氏は基本的に話さないということだ。私から話しかければ答えてくれれば、すぐに食事に戻る。それが彼の食事スタイルなのであろう。そういうわけで、私が彼に感想を求めるのはいつも店を出た後ということになった。

その日私は駒場に用事があり、それに合わせてT氏といくつかの店を巡ることになっていた。T氏が待ち合わせに指定した1軒目の店は、「らぁ麺 はやし田 新宿本店」。あいにく朝から雨が降っていたが、開店前から長い行列ができていた。
「すごい人気店なんですね。」
と私が言うと、T氏は口をゆがめた。
「そうだね。ただ、行列のできる店だからって自分が気に入るかどうかは別なんだけどね。こればっかりは食べてみるまで分からないよ。」
恐らく人気店がお気に召さなかった思い出があるのだろうなと思ったが、T氏が苦虫をかみつぶしたような顔をしていたのでそれ以上は聞かないでおいた。

開店後運よく1巡目で入れた私とT氏は、醤油ラーメンを注文して待った。私は、自分と同じものを食べたT氏の食レポを聞きたいという思いから、わざとT氏と同じものを注文するようになっていた。しばらく待って出てきたラーメンからは、何とも言えぬ良い香りが漂っていた。一口スープをすすると、ものすごく旨みが凝縮されているのが分かる。麺もうまい。大きく切られたメンマも、豚と鶏のチャーシューも、すべてが旨かった。私は特に気に入った豚のチャーシューを噛みしめながら、T氏の意見が早く聞きたいとわくわくしていた。

「どこをとっても美味しいな。」
退店後のT氏の第一声であった。
「スープは鶏ベースで出汁をとっているみたいだけど、すごく旨みが出てる。そもそもこういうタイプのスープは僕の好みなんだけど、特にこの店のスープは頭一つ分飛びぬけて気に入ったな。麺もそうだ。全粒粉を使ってるらしいけど、香ばしくてスープとよく合う。もうこの二つだけで十分なのに、トッピングも揚げ足をとる場所がない。僕は鶏のチャーシューが特に好きだったな。歯ごたえがたまらないね。」
T氏はうっとりとした顔で続ける。
「マンガに出てくる優等生みたいだ。成績はオール5、運動神経も抜群、おまけに顔もいい。一つ一つの要素でいえば、似た方向性のラーメンはいっぱいあるんだけれど、そのどれもで他の追随を許さないっていうのかな。腹が立つほど隙のないラーメンっていう感じがするよ。」
私が自分のお気に入りは豚の方のチャーシューだと伝えると、T氏は好みの違いだね、と笑って言った。

2020年3月【もち】純手打ち 麺と未来(下北沢)

私とT氏がはやし田の次に来た店は下北沢の「純手打ち 麺と未来」だった。T氏いわく、この店は百名店に選ばれたことがないらしいが、知り合いのラーメン通が勧めてくれたのでこの機会に是非行ってみたいとのことだった。

ここで出てきたのは、塩ラーメンと思しきスープのなかにうどんのような麺が入っている、不思議なものだった。麺を1本口に運ぶと、うどんともまた違うということがすぐに分かった。何とも言えぬモチモチ感がある。ラーメンでこんな食感は初めてだ。わき目も降らず、一口また一口と麺を頬張り続け、気づいたら麺がなくなっていた。それでもなお一口目から変わらない衝撃だった。横を見るとT氏も最後の一口を食べ終えており、私は呆然と店を後にした。

「これはすごいね。こんな店があるなんて正直知らなかったな。」
T氏がそう言ったところを見ると、彼も少なからず衝撃を受けたのだろう。
「モチモチしている、と言いたいところなんだけど、それじゃあ足りないんだよな。そもそもラーメンの麺はいろいろあって、ツルツルしたものからモチモチ感の強いものまでいろいろある。でもこの麺は、そんな枠組みを飛び越えているんだよ。モチモチしている、という表現を超えるものを僕の語彙力のなかで探すなら、『もち』そのものとしか言いようがないな。自分の貧相なボキャブラリーが妬ましいけど、『もち』という一言で表してしまうのが一番しっくりくるかもしれない。いやもちろん、本物のお餅とは違うんだけどね。」

この店が2020年にして初めて百名店に選ばれるのは、まだ半年以上も先のことである。

2020年3月【藍よりも青し】中華そば 西川(千歳船橋

麺と未来を訪れたあと、私は駒場で30分ほどの用事があるので一旦彼と分かれ、少し後で千歳船橋駅に集合した。T氏とはその日3食目のラーメンを食べることになる。目的の店は「中華そば 西川」。煮干しベースのラーメンを出してくれるとT氏からは聞いていた。駅から少し距離があり、閉店時間も近づいてきているので、私と彼は足早にその店に向かった。私が駒場にいた間どこで時間を潰していたのかと聞くと、T氏はラーメンとスイーツを一軒ずつ回っていたのだと答えた。私は唖然とした。この人は今日1日、移動と食事しかしていないことになる。本当に食べることが好きなのだろうなと感心させられる。

この店で提供されたラーメンは、スープが灰色に濁った、これまた独特のラーメンだった。矢も楯もたまらずスープをすすると、口いっぱいに煮干しの香りが広がる。煮干しのうま味をこうもダイレクトに感じられるスープもまた、珍しいのではなかろうか。麺をすするだけでも、麺がほどよくスープを連れてきてくれて、これまた美味しい。そしてトッピングのチャーシューも柔らかくて美味しかった。スープを最後の一口まで飲んで、私とT氏は店を後にした。

「ものすごく濃厚かつ上品なスープだね。」
T氏は言う。
「煮干しのうま味と苦み、美味しいところだけを目いっぱいに搾り取ったみたいなスープだ。それなのにエグみは全く感じられない。煮干しからとったスープなのは一目瞭然だけど、それでいて煮干しそのものからは想像もできないような美味しさだよ。『青は藍より出でて藍よりも青し』って言葉があるけれど、まさにその青がこのラーメンだな。」
こんなに好みの店ばっかり連続して当たるのも珍しい、とT氏は嬉しそうに言った。

その後T氏は、帰り道の途中の駅で降りて行った。もう少しラーメンを食べてから帰るとのことである。私も誘われたが、丁重に断った。
「さっきの店の時点でかなりお腹いっぱいだっのに、スープまで全部飲み干してしまったもので。もうあまり胃に入らないです。」
美味しいスープは飲み干さなくちゃね、と嬉しそうにうなずいて、T氏は一人、電車を降りた。その背中を見ながら、たしかこの人もスープは全部飲み干していたぞ、ということを思い出した。本当に恐ろしい人だと思いながら私は彼の背中を見送った。

2020年7月【こういうのが好きなんでしょ?】カレーの店 プーさん(武蔵小金井

その日、私は久しぶりにT氏と会った。彼はしばらく実家に帰っていたとのことで、彼自身、東京の百名店を訪れるのは久しぶりとのことであった。私もほとんどの時間を家に閉じこもって過ごしていたため、久しぶりに遠出をしたくなっていた。わざわざ武蔵小金井という本郷からは少し遠いところを指定されても私が二つ返事で承諾したのは、そういうわけである。

店の前で待っていると、彼が集合時刻ぴったりに走ってやってきた。いつも彼の方が早くに到着しているので何かあったのかと聞くと、この近くに資格試験の会場があり、彼は今日それを受けていたとのことだ。
「来てくれなくてもよかったのに、わざわざここまで呼び出してすまなかったね。今は昼休みだから、申し訳ないけど、食べ終わったら急いで戻って試験の後半を受けなきゃいけないんだよ。」
そんなギリギリのスケジュールで昼食をとったら試験に響くのではないか、と聞こうとしておいたがやめておいた。彼がそんな理由で食べたいものを諦める人間ではないことはよく知っていた。

私たちが入ったのは「カレーの店 プーさん」。店内は何人か待ちで、T氏は並んでいる間少しソワソワしていた。ほどなくして通された私たちは、野菜カレーを注文した。注文してから提供されるまでの時間はやや長めだが、店内は落ち着いた雰囲気で、普段なら待ち時間も気にならなかったであろうと思う。ただやはりT氏は焦っているようで、店内のゆったりとした雰囲気とのコントラストが私にはおかしく思えた。

提供されたカレーライスには、色とりどりの野菜が散りばめられていた。ピーマン、茄子、トマト、ズッキーニ、ブロッコリーやキノコ類をはじめとして、挙句にはこんにゃくまで入っている。一つ一つが美味しく、最後までペロリと平らげた。T氏はと言えば、そそくさとカレーを平らげて食後のマンゴーラッシーまで一気に飲み干し、私より先に店を後にした。そんなので味は分かっているのかと気になったが、本当に時間がギリギリのようなので何も言わずに見送った。

私がT氏から感想を聞いたのは後日のことだ。
「野菜カレーはああじゃなくっちゃね。」
感想を求められたT氏は嬉しそうに言った。
「素揚げされた野菜が散りばめられて、まるで宝石箱みたいだったね。野菜カレーで僕が入れてほしい野菜を、これでもかと入れてくれてるんだよ。それどころか、遥かに予想を超えたものも入れてくれている。そしてそれがまた全部ルウとマッチして美味しいんだよな。どうせあんたはこういうのが好きなんでしょ?って、ドカドカと野菜を詰め込まれてるみたいな見た目をしてるけど、実際それが美味しいから言い返せないんだよな。はい好きです、ってモグモグ食べることしかできない。」
なんだかドMみたいな物言いだなと思ったが、T氏がドMであってもそんなことは知りたくないので何も言わないでおいた。T氏は続ける。
「それにルウも美味しかったね。カツオなんかの和風の出汁が、スパイスを複雑に組み合わせて作ったカレーとはまったく違う方向性の深みを出してる。出汁の旨みが、あの大量の野菜とライスとを繋ぎとめているのかもしれないね。」

2020年11月【ジンテーゼ】カレー&オリエンタルバル 桃の実 水道橋店(水道橋)

8月、9月と私はインターンシップで忙しかったが、10月ごろからはまたT氏の食事についていく回数が増えた。そんななかで11月初頭の夕食に訪れたのが「カレー&オリエンタルバル 桃の実 水道橋店」だった。開店5分前に並んだが、それでも店の前には何人かの先客がいた。メニューにはチキンカレー、キーマカレー、ラムカレーがあるようで、私たちはチキンカレーを食べようということで合意した。しかし開店直後にそのあては外れることになる。なんとチキンカレーはランチタイムで売り切れており、キーマカレーも1食分しか残っていないとのことだった。私たちは一瞬顔を見合わせたが、T氏は、
「それじゃあキーマとラムを一つずつください」
と店員に告げた。T氏は私に好きな方を選んでいいよと言ったが、私はT氏と同じものを食べたいというのが本音だった。そのことは前にT氏にも伝えていたので、それを思い出したのか、T氏は、少しお互いのカレーを交換しよう、と提案してくれた。

結局私が選んだのはキーマカレーだった。挽き肉がたっぷり入っていて、文句なしの美味しさだった。T氏にもらったラムカレーも食べてみたが、こちらは全く味が違っていた。羊の肉というのは私はあまり食べたことがなかったが、これは羊ゆえの美味しさなのだろうか。食べ終わったらT氏に尋ねてみようと思いながら、私はカレーライスに舌鼓を打っていた。

「うんうん、ラムカレーなんて僕も初めて食べたけど、あれはラムゆえの旨みだね。」
私の質問にT氏はそう答えてくれた。
「あんなにラム特有の旨みをカレー全体に染み渡らせられるなんて、それだけで驚きだよ。それにキーマカレーの方も、肉の旨みがしっかりしていて美味しいね。全く別物という感じがするな。二つを食べ比べたからこそかもしれないけど、肉ごとにその旨みを最大限に引き出してくれているんじゃないかっていう気がするよ。もしかしたらルウのベース自体もそれぞれに合うように変えたりしているのかな。」
そこでT氏は一息おいた。
「カレーライスを食べてると、この肉は美味しいけど別になくてもいいなって思うことがあるんだ。でもこれは違う。ルウの美味しさと肉の旨みとが上手く調和されて、もっと高次な美味しさを実現している。それだけじゃない。本格的でスパイシーな味わいと、日本風カレーの深みある味わいとのちょうどいいバランスを保っていて、ルウ自体にも独自の美味しさがある。そういった点で、相反するものを組み合わせて最高に美味しいものを作り上げた、弁証法的に言えばジンテーゼのようなカレーライスだと思うんだよ。」
今度来るときはぜひチキンカレーも食べてみたいね、と言いながら私とT氏は分かれた。

2020年11月【凡庸たる芸術品】神名備(西日暮里)

桃の実を訪れてから1週間後に私たちが訪れたのが、ラーメンの店「神名備」であった。綺麗な店内でカウンター席に通された私たちは、目の前に並ぶスパイスの詰め込まれた瓶を眺めていた。瓶には名前が書かれているが、私がかろうじて分かるのは花椒のみだった。T氏は興味深げに目を細めて見ており、「へえ、花椒やら八角やら……。桂皮やリコリスまで……。」とつぶやいていた。

提供された醤油ラーメンには、厚切りの大きなチャーシューといくぶん多めのもやしが乗っていた。隣でスープを一口飲んだT氏が、小さな声で「おいし……」とつぶやいたのが聞こえてきた。彼が食事中に言葉を発すること自体が珍しいので、私は少し驚いた。慌てて私もスープを一口すする。他にはない味わいで、たしかに美味しかった。カウンターの前に並んでいたスパイスたちが効いているのだろうか。これはあとでT氏に聞かねばならないと思いながらチャーシューにかぶりつくと、こちらもまたスパイスが効いており美味しかった。ほどよい柔らかさで、何となく豚の角煮を彷彿とさせる。麺も申し分なく、非常に満足して店を出た。

退店して開口一番、私はT氏に質問した。
「ここのスープってすごく美味しいんですけど、あんまり食べたことない味だったんですよね。やっぱりあのスパイスがスープに使われているんでしょうか。私は知らないものばっかりなんで分からないんです。」
「いや、あのスパイスは僕もほとんどは知らないよ。自分で使うようなものは一つもなかったしね。だから、スープの味の構成についても、ほとんど分からないというのが正直なところかな。ただ名前は聞いたことのあるものが並んでいたから、ちょっと興味を持ったんだ。ああいうのに詳しくなれるといいんだけどね。」
T氏の答えは私にとっては意外なものだったが、T氏はなおも続けた。
「調味料とかって、意識して自分で使わないと分からないことが多いからね。料理を作る側の人たちは本当にすごいよ。もちろん食通と呼ばれる人たちのなかにはそういうのが分かる人もいるのかもしれないけど、作るのも食べるのも、数を重ねないと分からないこともあるからね。」
なるほど、と首肯し、私はもう一つ気になっていたことを伝えた。
「そういえば最初に美味しいって言ってましたけど、ああいうのを声に出すことって珍しいですよね。」
それを聞いたT氏は、笑ってうなずいた。
「あのラーメンを見たとき、正直どこにでもあるラーメンに見えたんだ。チャーシューは大きいんだけど。もやしなんかはかさ増しに使われるイメージが強いからね。どこにでもあるっていうのは、裏を返せば誰もが美味しそうと思える盛り付けなんだけど、それでも特筆する点は少ないように思えた。でもスープを一口食べてみると全然違った。それに驚いたんだ。もちろんスープだけじゃない。チャーシューも麺も、もやしでさえも、すべてが一体となっていて、一つの空気感を舌の上で作り上げてくれる。どれ一つ欠けてもダメな、完成された一杯だと思ったよ。料理の見た目にこだわる人のなかには、料理は芸術品だっていう人がいるけど、このラーメンは、口に入れて初めて完成する唯一無二の芸術品という気がするな。あの凡庸に見えた盛り付けも、食べ終えた後だと、もはやそういう盛り付けでなくてはならないと強く思ってしまったよ。」
「そういえばチャーシューとかは角煮みたいな味だなって思ったんですけど、不思議とそれが麺やスープに合ってるんですよね。」
「角煮みたいと思ったのは、きっと八角っていう中華料理の調味料を使ってるからだろうね。八角が効きすぎてるのは僕はあんまり好きになれないんだけど、あのチャーシューはいい塩梅でものすごく美味しかったな。ラーメン全体の味付けで言っても、むかし台北で食べたラーメンを彷彿とさせるものだったんだけど、かなり日本人好みなバランスにしてるんじゃないかな。」
台北のラーメンか、と私は思いを馳せた。T氏は自分が食通にはほど遠いと言い張るが、私に比べたら圧倒的な食事の経験を持っているのだろうな、と嘆息しながら私は帰路に着いた。

2020年11月【理想郷】ガヴィアル(神保町)

神名備を訪ねてからまた一週間後のこと、私はT氏とともに神保町に来た。神保町はカレーライスの名店が多いことで知られるが、この日に訪ねたのは「ガヴィアル」だった。つい先日カレー百名店2020が発表され、この店もそこに名を連ねていたのである。私たちが頼んだのは野菜カレー。こぎれいな店内でしばらく待っていると、バター付きのじゃがいも、溶けたチーズの乗ったライス、それにカレーが運ばれてきた。

バター付きのじゃがいもやチーズの乗ったライスというのは、カレーライス店で何度か提供されたことがあったので、そこまで驚くものでもなかった。ルウを一口食べると、甘みと辛みがほどよく口の中にじんわりと広がり、野菜も大きく切られた茄子やアスパラガス、パプリカやトマトがゴロゴロ入っており、とても美味しい。私の好みの味だな、と思いながら味わった。

「カレーの一番上に乗ったトマトを最初に食べたときにさ」
退店後、T氏は満足げに言った。
「トマトについたルウの味が一瞬だけふわりとしたんだ。何というかその瞬間、月並みな表現だけど、時間が止まったように感じられたんだよね。その一瞬が何十年もの歳月だったような、本当にそんな感覚だったんだよ。そしてカレーライスって、最初は甘く辛さが後を引くというのが多いと思うんだけど、僕にとっては、ここのは甘みと辛みが同じくらい尾を引くカレーライスだったんだ。だからルウを飲み込んだあともまだ夢を見ているような、そんな気持ちにさせてくれる。それに少し硬めのライスも、一つ一つの野菜も、そのルウの味をさらに引き立てていて素晴らしかったな。店全体の雰囲気も手伝って、理想郷にいるかのような幸福感だったよ。」

2020年12月【蟻地獄】エリックサウス 東京ガーデンテラス店(永田町)

12月に入ったある日、私たちが訪れたのは、カレー百名店2020に名を連ねる店「エリックサウス 東京ガーデンテラス店」であった。少し遅めのランチタイムであったが、私たちはランチプレートを選択した。カレーはいくつかの種類を選べるが、最もスタンダードと思われるエリックチキンカレーを選択した。

ルウを一口食べると、スパイシーな香りが口の中全体に広がった。私はスパイスが効いている系の本格派カレーはそこまで好きではなかったが、これは美味しく感じる。舌が貧しいからか本格派のカレーの良さはあんまり分からないんですよ、とT氏に伝えたときに、彼が笑いながら「それは好みってことでいいんじゃない」と言っていたのを思い出す。もしかしたらT氏について行っていろんな店を訪問しているうちに、私にも良さが分かってきたのかもしれないな、と思った。その後には、ルウとライスと合わせて一口。ライスはサフランライスのようで、鮮やかな黄色だった。ルウとライスがとても良く合っており、どんどんと食べたくなる味である。ライスはおかわり無料とのことで、結局2回おかわりしてしまった。おかわりの都度店員さんが専用の容器に入れて持ってきてくれるのがありがたい。

退店後のT氏の意見は、私とはいささか異なるものだった。
「ルウを一口食べたときには、正直そうでもないかなって思ったんだ。もちろん文句なく美味しいんだけど、普通に美味しい、くらいの感覚だったんだよ。でも食べ進めていくうちに、どんどんとこの味にハマっていったんだ。気づいたら虜になっていた。蟻地獄に落ちていくみたいな感覚だったよ。ライスがいい仕事をしているんだろうな。きれいなサフランライスで、ふわりとバターも香ってる。ライスだけでも食べられちゃうくらい美味しいんだよ。そしてそれが、ルウの辛さとマッチしてるんだよね。こんなに食べれば食べるほど美味しくなるカレーライスはなかなか出会わないな。」
スパイシーなルウのわりに自分も気に入りました、というと、T氏は嬉しそうにしていた。
「一言でスパイシーと言ってもいろんな味があるから、この味が好みにあったのかもね。どんな食べ物にせよ、好きになれるのは喜ばしいことだよ。」

2020年12月【人まっしぐら】神保町 黒須(神保町)

12月になるとラーメン百名店2020も発表され、私とT氏はその一角を成す「神保町 黒須」を訪れた。その日はT氏は2食連続で回るようで、午前に用事のあった私は2食目の黒須で合流した。店に入ると、独特の香りが流れてくる。高級猫缶の匂いに似てるな、と思ったが、こんなことを口に出せば怒られるのかなと考えた。私にとっては高級猫缶はいい匂いなのでこれが最上級の褒め言葉だが、自分の語彙力のなさが悔しい。

到着した塩ラーメンのスープは、油が浮いており黄色っぽくなっていた。だが一口すすると、ただの油ではないことが分かる。こんなに旨いスープがあるのか、と驚いた。麺はやや柔らかめ、メンマは大きく、チャーシューも旨い。どれもが一級品で、スープの衝撃的な美味しさを楽しむのに申し分ない。きれいさっぱりスープを飲み干して、私たちは店をあとにした。

「ものすごく鶏の旨みが出ているスープだね。」
T氏は言う。
「かなり油の多いスープだと思うんだけど、その油がくどくないどころか、香り高くて美味しいんだよね。鶏だけであんな旨みが出るのかな。あんなのは初めて食べたから、一体何がどうなっているのか分からない。なんにせよ、口内炎が痛むのにスープを全部飲んでしまったよ。」
口内炎の痛んでいる人間がラーメンを連食するのはいかがかと思ったが、T氏がそれでも食事をするような人間であることは私はよく知っている。そのときふと思い出した私が、高級猫缶のにおいがしたことをおずおずと伝えると、T氏は笑った。
「高級猫缶か。僕は猫缶の匂いがあんまりよく分からないけど、あのスープに魚介系の何かが入っていたりするのかな。」
T氏は少し考えこんだ後、口を開いた。
「メニューには煮干しラーメンがあったし、その辺りの匂いも関係するのかもね。でも確かに、すごくいい匂いだった。いい猫缶は猫がたまらず飛びついてくるって聞くけど、このスープにはそんなたぐいの感情をかき立てられたな。猫まっしぐらならぬ、人まっしぐらってやつだね。」

帰り道、T氏は「猫缶か、食べてみたいな……」とつぶやいていた。彼なら本当に食べるかもしれないと思いつつも、私は黙っていた。もし本当に食べたら、そのときは味の感想を聞いてみようと思う。

エピローグ

そういえば、とある日私はT氏に言った。
「百名店に選出された店を先回りに制覇しておくと表彰されるって言ってましたけど、2021年の枠で目指したりしないんですか?」
毎年選ばれる百名店はある程度重複があるという話なら、2020年の百名店を巡っているT氏ならそう難しくはないはずである。しかしT氏は、ゆっくりと横に首を振った。
「それは無理だろうね。そもそも表彰されるには、食べログで一定の条件を満たした全部の店の投稿をしないといけない。」
「え、でもたしか、食べログには投稿してるって言ってましたよね?」
「メモ程度の感想をね。ただその一定の条件のなかに、写真つきで、というのがあるんだ。写真がないと行った証明にはならないし他の人の参考になりにくい、っていうことなんだろうけどね。」
あっ、と私は声を漏らした。そういえば何軒もの店舗を回ったが、T氏が写真を撮っている姿を一度も見かけていない。
「なんで写真をとらないんですか?」
「料理が提供されたら、写真を撮るより先に食べたいって思っちゃうからね。あとは単純に面倒くさいからとか、理由はいろいろ。」
私からすれば、グルメとしてふさわしい称号を獲得できないのはあまりにもったいないと思ってしまうが、T氏はそこまで興味がないらしい。本当にこの人はなんのために百名店スタンプラリーなんてものをしているのだろう、と常々思う。